『キリスト教信仰和讃』

『キリスト教信仰和讃 その二』

 振り返ると3年以上この詩についての記事を書き続けている。しかしこの詩は、私にとっていつまでも古くならず、新鮮な気づきと喜びをを与え続けている。

 『キリスト教信仰和讃 その二』を初めて記事にするに当って、ここで改めて、「その一」と並べて『キリスト教信仰和讃』の前文を収めたいと思う。

『キリスト教信仰和讃』

その一
一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

二、人は神の内に住み、神は人のうちに住む、
 魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。

三、人を大事にしているは、神を大事にするのです、
 人を粗末にしているは、神を粗末にするのです。

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

五、神のむくいが来る時は、おそい早いはあるけれど、
 おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。

その二
一、正しい賢い福(さいわ)いな、人になろうと思うたら、
 気のつくことは直(じき)になし、気が咎(とが)めたらせぬがよい。

二、気のつくことも咎むるも、親がその子を守るよう、
 夜でも昼でも神さまが、我らを守るみ声です。

三、釈迦も孔子もキリストも、ソクラテースも皆ともに、
 気のつくことは直になし、気が咎めたらせぬのです。

四、大事小事の区別なく、出来ない時にはお祈りし、
 気のつくことはせにゃならん、気が咎めたらしちゃならぬ。

五、マーとかシカシなど言うて、気のつくことを直にせず、
 咎むることをするならば、いつも後悔するばかり。

六、何でも何処でも何時にても、気のつくことは直になし、
 咎むることをせぬならば、決して後悔いたしません。

 このように改めて通して読むと、その内容の深さと解りやすさ、韻律の美しさ、また作者である吉田清太郎牧師の神と人、また子供たちに対する愛情の深さが実感させられる。

 また「その一」については、長々と時間を掛けて不遜にも「解説」などと称して色々なことを書いたが、今にして思えばそれらは「解説」などではなく、この素晴らしい詩に対する私の「応答」であり「黙想」のスケッチであったように思う。

 それも不完全で稚拙なスケッチであった。

 それでも一度始めたことなので、一先ずはスケッチを続けたいと思う。

 前回に見たように「その一」の主題はこの詩の第一節、第一の言葉である「天と心にすむ神」、すなわち「偏在するとともに信仰者一人ひとりのうちに内在される神」であり、この神と私たち信仰者の関係についてが詳しく語られていた。

 それでは「その二」の主題は何であるかと言えば、それはやはり「その二」の第一節、第一の言葉である「正しい賢い福(さいわ)いな、人になろうと思うたら」である。

 ここから、もし「その一」を非常に単純化して、「神と人との関係を示す」ものと考えるとすれば、「その二」はそれでは「人は如何にして生きるべきかを示す」ものと考えることができると思う。

 このように考えると、この『キリスト教信仰和讃』が益々素晴らしい構成をもった詩であるということが解る。

 なぜならば、最初に、「神と人との関係」を示し、その後に「人は如何にして生きるべきか」を示すという構成は、聖書に見られる「十戒」や「主の祈り」と共通するからである。

 「その二」の主題が「人は如何にして生きるべきか」だとすると、それを展開させる鍵句(キーワード)は「気のつくことは直(じき)になし、気が咎(とが)めたらせぬがよい。」である。

 はっきり言えば「その二」は、「その一」以上に単純で解りやすい内容であり「気のつくことは直になし、気が咎めたらせぬ」という鍵句の繰り返しで、この一事だけを奨励しているのである。

 「気のつくことは直になし、気が咎めたらせぬ」、これが、私たちの生涯を「正しい賢い福(さいわ)いな」ものにするために唯一心に留めるべきことなのであると吉田牧師は勧めているのである。

 しかしこの単純な行動の使信を実行することのなんと難しいことか。

 それで私たちの人生は「いつも後悔するばかり」である。

 だからこそ私たちは「その一」に示されている神との関係へ帰って往かざるを得ないのである。

 現時点では『キリスト教信仰和讃』 についての、私のスケッチは語り尽くされたように思う。

 以後機会があれば、禅者牧師、吉田清太郎師のその他の言葉なども記事にして行ければと考えている。

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『キリスト教信仰和讃』解説第10回

今回はこの『キリスト教信仰和讃』解説のシリーズ記念すべき一つの節目となる。

一つには第10回を迎えたこと、もう一つには、今回で『キリスト教信仰和讃』「その一」の最後の節を取りあげ完結することになるからである。

私としてはやっとここまで来たという想いであるが、果たしてどれほどの読者がいるのであろうかという疑問もないではない。

もし最近、或いはこの記事で初めてこのブログを訪れ関心を持たれた方は、すべての記事がそれなりに長文ではあるが、カテゴリーの『キリスト教信仰和讃』 から、全ての記事に目を通して頂ければ幸いである。

それでは今回の箇所
その一の七、

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この説の一文目は前節に引き続き「ただちに」という語が用いられている。

この「ただちに」を「即」という語との関係で考えるとき、この言葉が、宗教的であり且つ、禅者牧師である吉田清太郎的な表現であることは、前回述べた通りである。

そして今回この箇所で「ただちに」せよと勧められているのは「おわび」である。

これは「神さま」に対するお詫びであるから、キリスト教的な意味での悔い改めの勧めである。

前節の「祈り」と「感謝」に引き続き、この詩の作者である吉田師は「悔い改め」を勧めている。しかもその「悔い改め」とは、前回述べたような「自分と全く一体となっている神を覚え、即応答する」という実態を持つ行為としての「悔い改め」を意味している。

私としては、このことを理解した上で、初めて「もし間違いをした時は」と言われる「時」がはっきりしてくるように思う。というのは「間違い」とは一体何を意味するのであるかという問題があるからである。

キリスト教信者、或いはキリスト教に理解のある人であれば、この「間違い」が、「罪」と換言し得ることは容易に察しがつくことであろう。しかし問題は、罪とは一体なんであろうかという質問や、聖書において全人類が罪の下におかれ、その奴隷となっているということが語られている文脈の中で、人間が、或いはキリスト者が「間違いをした時」即ち「罪を犯した時」とは、具体的にはどのような「時」を意味するのであろうかということである。

上述のような質問に対して、一方では盗みや人殺し、或いはそれに先立つ妬みや憎しみを他者に対して抱いた時など、聖書において罪とされている心の中の想いも含めた、具体的な行為を行った時であると答えることが可能であろう。また、人間はすべて罪人であり、たとえ信仰者であろうともこの地上においては、絶えず罪に傾く傾向を持っているのであるから、「絶えず」即ち「無時間的、継続的に」悔い改め続けるべきであると答えることも可能であると私は考える。

上述の2つの回答はどちらも真理であると私は信じている。しかし、この詩のこの箇所の解説としては、どちらも不十分であると私は考える。

後者については、この箇所が「時」に言及していることの意味を薄めてしまっている。対して前者においては「聖書において罪とされている」ことについての個人の知識と理解、解釈によって厳密さがなくなる。「悔い改め」に関して厳密さを欠くということは、真剣さを欠くということであり、真剣さを欠く「悔い改め」はもはや「悔い改め」ではないと私は考える。

この詩句においては「おわび」という語で言われているので、相応しい表現に言い換えれば、「まごころからのおわび」でなければならない。

この『キリスト教信仰和讃』全体に込められた、作者である吉田師の神と人に対する愛と真剣さから言っても、ここで「悔い改め」について真剣さ、即ち厳密さを欠くことは出来ないと私は考える。勿論この厳密さとは、キェルケゴールが言うところの「配慮」即ち「人間的な現実に対する関係」であり「キリスト教的」な「真剣」さに立った上での厳密さである。

それでは果たしてそのような「厳密さ」は、如何にして実現するのであろうか。

それは今日の箇所の二文目の言葉に明確に表されている。即ち「天と心に住む神」である。

つまり、これは同じ「ただちに」という主題を持っている前節の2つの「時」についても同じことが言えるのであるが、「天と心に住む神」と唱え得るように「内在」する神を覚えている者にとっては、「祈り」にしても「感謝」にしても、そして「悔い改め」にしても、全ては「内在」する神に対しての行為であるから、その成すべき時が来れば、その「時」は自ずからはっきりと解るということであり、これほどキリスト教的であり、且つ厳密な内容はない。

言い換えれば、結局のところすべては「天と心に住む神」を覚えることに掛かっているのである。

『キリスト教信仰和讃』「その一」の全文を見れば一目瞭然となることであるが、この詩の第一節、第一の言葉もまた「天と心に住む神」である。またこの詩の全体の内容を概観すれば、その中心的な主題もまた「天と心に住む神」即ち「偏在し且つ内在する神」であることは明らかである。

このように「天と心に住む神」こそが、この『キリスト教信仰和讃』「その一」全体の主題であり、且つ大前提でもあることを明らかにして、この第10回、即ち『キリスト教信仰和讃』「その一」の解説完結編を閉じることとする。

次回はいよいよ『キリスト教信仰和讃』「その二」のお披露目である。

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『キリスト教信仰和讃』解説第9回

1年以上ぶりの再開である。

箇所
その一の六、

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

前回から今回の間に1年以上の期間が空いてしまったことについては、私が飽きっぽく怠け者であるということに加え、今回の箇所の内容にも理由があると私は考えている。

それはつまり今回の箇所の詩句の単純明快さである。

苦しい時には祈り、すなわち神に助けを請い、楽しい時、すなわち喜ばしいことがあった時には神に感謝を捧げること、これほど単純で解りやすいこともない。

これまで、幾度かこの箇所に取り掛かろうと思い立ったことはあったのであるが、この詩句を読むたびに、これほど単純で解りやすい詩句に解説や説明を加えるというのは、私には不可能なことのように思われたのである。

しかし、今回改めてこの詩句を読み返してみたところ、この詩句の要となる言葉が、スーッと浮かび上がってきた。その要となる言葉とは「ただちに」という言葉である。

この『キリスト教信仰和讃』の作者である吉田清太郎牧師は「禅者牧師」と呼ばれた人であり、キリスト教の牧師でありながら、禅を真剣に研究した人であった。それがどれほどの熱心さによってなされたのかということは、この『キリスト教信仰和讃』の出典である秋月龍珉 著/編 『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』によって知ることができる。

この禅者であり牧師でもある吉田師は以前『キリスト教信仰和讃』第4回でみたように、神の内在性について、「神と人が一体である」という独特の理解を持っていた。

独特とはいうものの、勿論聖書の教理に反するものではなく、むしろその点に特別の思い入れを持っていたという方が正しいと思う。

ともかく、そのような文脈の中で今回の詩句を読むとき、この箇所の要は「ただちに」という言葉であるというのが私の見解である。

ここで使われている「ただちに」という言葉は、言い換えれば「即(そく)」」ということではないかと私は考える。

「即(そく)」とは、そもそも仏教の用語であり、二つのものが互いに表裏の関係にあって分離できない状態を意味している。「般若心経(はんにゃしんぎょう)」には「色即是空、空即是色」とある。

ともかく、この「即」という言葉を副詞的に用いると「ただちに」という意味となり、「即(そく)実行する」というような使われ方をする。

また接続詞として用いられるときには、前者と後者とが同じであることを表す語となり、「とりもなおさず」或いは「すなわち」(即ち)という意味を持つ。

このように「ただちに」を「即」という語との関係で考えるとき、この言葉が、宗教的であり且つ、禅者牧師である吉田清太郎的な表現であることが解る。

これらのことを覚えて、再度今回の詩句を読んでみたい。

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

ここには、「苦(しみ)」即「祈(り)」「楽(喜び)」即「礼(感謝)」という、信仰者の生活に現れるべき理想的な在り方が浮かび上がる。さらにこのような在り方とは「とりもなおさず」「神と一体となっている」ことを確信している信仰者の姿であると私には思われる。

この私の考えをよりはっきりと理解して頂くために、逆説的なたとえを挙げて、この記事を閉じることにする。

もし信仰者が「神と一体となっている」(これはすべての信仰者の実状であるが)のに、その実状を確信せず、それどころかそんなことは全く知らないという場合、その信仰者は苦しみに遭うと、「なぜ神は、私をこのような苦難に遭わせるのだろうか」と「つぶやく」(それは断じて祈りではない)ことになる。なぜなら彼にとっての神は遠く天に在り、人間の運命をその手に握っているのではあるが、人間の苦しみの只中にはおられないからである。

同じように彼が楽しむとき、彼は彼個人として楽しみ、たとえ、彼が楽しみを享受して後、我に帰り神に感謝を捧げるとしても、彼の享受した楽しみの経験の只中で、神の現実的な存在を味わい感謝するということは無い。なぜならば、彼の神は遠く天におられるからである。

この詩句において吉田師が表現している、「苦しい時に、ただちに祈り、楽しい時に、ただちにお礼を申す」とは、苦しみや楽しみの只中で、自分と全く一体となっている神を覚え、即応答することであると私は考える。

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『キリスト教信仰和讃』解説第8回

決して忘れていた訳ではないこのシリーズです。前回は7/14でした。

箇所
その一の五、

五、神のむくいが来る時は、おそい早いはあるけれど、
 おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この箇所の主題は「神のむくい」である。

「むくい」とは、第一義には「報酬」すなわち、その働きに対して当然支払われるべき対価を意味します。

しかしそれが「神のむくい」となる場合には、それは上記のような一般的な意味に、その対価の支払い手である神の性質が関係して来ます。

この『キリスト教信仰和讃』の取り上げる神とは、当然キリスト教の神ですから、キリスト者である私の言葉で簡単に言い表すならば「愛と義に富みたもうお方」であり、「愛」とはすなわち「憐みと恵み」であり「義」とは「正義と公正」であります。そして、キリスト教の神、すなわちイエス・キリスト様は「救済者」であり「さばき主」であります。

つまり「神のむくい」とは、この世の目に見える形では様々な形を取ることがあっても、その究極的な意味は、「憐みと恵み」「正義と公正」に富んだ「救済の業(わざ)」また「さばき」であるということになります。

私はキリスト教信仰者であるので、「神のむくい」を信じ、また待ち望んでいます。

信仰者は「おそい早いはあるけれど」「神のむくい」は必ず「来る」のだということを信じ、待ち望む者です。逆に言えば、そうでない者は「信仰無き者」ということになります。

またここで言う「信仰無き者」とはいわゆる信仰のうすい人という意味ではなく、文字通り「無信仰の者」すなわち、神とはまったく「無関係」の者という意味です。

ここで私が強調したい点は、「神のむくい」を「信じ」また「待ち望む」、この行為こそ、すなわち「信仰」であって、これなくしては、信仰者であるという私のアイデンティティーも、またこの『キリスト教信仰和讃』もともに、骨抜きとなってしまうということです。

上記の点を踏まえた上で、後半の「おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。」という詩句について考えて行きたいと思います。

先程も述べましたが、「神のむくい」は究極的には神の「救済の業(わざ)」また「さばき」を意味しています。そしてこの「救済の業(わざ)」と「さばき」とは、私にとっては同じ「一つのこと」を別々の言葉で述べているに過ぎません。

すなわち「終わりの日」には、神に信頼する者は「救済」され、そうでない者は相応しい「さばき」を受けるのです。込み入った「救済論」に入り込むことを避けたいので、ここでは簡単に済ませたいと思いますが、「信仰者の希望」すなわち「神の救済の業(わざ)」とは「愛と義に富みたもうお方」によって「完全なさばき」が行われることであります。この「希望」があるからこそ、信仰者は、神以外からの一切の「むくい」を求めず、このシリーズ「第三回」の時に述べたような、「「真の人間活動」としての「働き」と「学び」」を、時には歓びのうちに、時には歯を食いしばりつつ継続して行くことが出来るのです。

私たちは日々の生活の中で、確かに「神のむくい」としか考えられない、「憐みと恵み」「正義と公正」に富んだ「この世のむくい」を経験することがあります。それらは上で述べたような、信仰者が「終わりの日」に受ける究極的な「神のむくい」を「象徴」するものとして、私たちの信仰を強めてくれます。信仰者にとっては「この世のむくい」は、ただ、そのような意味に於いてのみ有益なものであります。

シリーズの中で何度か述べていることですが、この『キリスト教信仰和賛』は、基本的には、子供たちに、「倫理道徳」を教示するという目的を持っています。ですから、今回の詩句も、一義的には、この「神のむくいにとって象徴的なこの世のむくい」について教えているように私には感じられます。

しかし、作者である吉田清太郎牧師が、キリスト者にとって唯一の希望である、究極的な「神のむくい」を見越してこの詩句を書いているのは当然のことと思われます。

「おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。」

吉田牧師によるこの詩句は、涙とともにパンを食べ、歯を食いしばって「神のむくい」を待ち望む、我々信仰者にとって、なんと大きな慰めと励ましとなることでしょうか。

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『キリスト教信仰和讃』解説第7回

昨日の続きです。

箇所
その一の四、

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この箇所の「主語」は「天と心に住む神」であり、「一つ一つ喜び」「一つ一つむくい(る)」という二つの「動詞」は「神の動詞」であること、そしてこの「動詞を持つ神」は「動かざる神」ではなく「活動する神」である、ということを前回の最後に述べました。

「動かざる神」とは「ただ存在する神」であり、その存在を認められた所で、私たち人間には、なんら影響を及ぼすことのない存在である。一体誰がそのような存在を、神であると想像することが出来るでしょうか。

しかし、実は多くの人々が日常生活の中で心に描いている神とは、この「動かざる神」なのです。しかも人々は、自分がそのような「不自然な神観」を持っていることにさえ気付いていないのです。

多くの人々が次のように語るのを私はよく耳にします。

「神は存在すると思う」「神様はいると思う」「神様は信じる」etc...

このように語る人々は愛すべき善意の人々です。しかしかれらは、一つの「決定的に大切な点」について、全く無頓着に過ぎるのです。

その「決定的に大切な点」とは、もし本当に神が存在するのだとしたら、それは一体どのような神なのであるかという点である。

私はここで、その人々を批判したい訳ではありません。そうではなくて、むしろその愛すべき善意の人々に「敬意」を表し、共に「更なる深み」へと一歩を踏み出したいと願っているのです。

この吉田清太郎牧師による『キリスト教信仰和讃』は、その名の通り「キリスト教信仰」に立って神を見、また仰いでいます。

この「キリスト教信仰における神」こそ「活動する神」である。

「活動する神」とは「生ける神」であり、「人格的な神」であり、「行為する神」である。

ところで、私たち人間も「生ける、人格的な、行為する存在」です。

「生ける、人格的な、行為する存在」である人間に対しては「敬意」が払われなければなりません。これは「私たちが生きる社会」の根底にある基本的な感情であるはずです。

もしそうであるなら、「生ける、人格的な、行為する神」に対してもまた、私たちは「敬意」を払うべきであります。

「敬意を払わない」とは即ち、「侮る(あなどる)」ことを意味します。

私たちが「侮り(あなどり)」に対して、自然に抱く感情は「怒り」ではないでしょうか。

ですから「生ける、人格的な、行為する神」もまた、「侮り(あなどり)」に対して「怒り」を燃やされるであろうことは、容易に想像出来ることであります。

しかし、今回の主題は「神の怒り」ではなく「神の喜び」であり、「神のむくい」です。

「天と心に住む神」は、私たちの行う「親切」を「一つ一つ喜び」、「一つ一つむくい」て下さるのです。

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『キリスト教信仰和讃』解説第6回

またも久し振りのこのシリーズとなりました。

箇所
その一の四、

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

前節の解説に於いて私は、この詩句が「子供たちに、或いはこの詩句のすべての読者、すなわち私たちに、「倫理道徳」を教示するという目的を持っている」という事を書きました。

そしてこの箇所は前節で示された「人を大事にすること」をさらに奨励する詩句となっています。

言うまでも無いことであるが、ここで吉田牧師は「小さい親切」を奨励しているのではなく、その大小に関わらず「親切」を行うことを勧めているのである。

ここで、第三回の「どこにても」の箇所で解説したことを思い出して頂きたい。私はそこで「この「どこにても」には「空間的な」意味と共に「時間的」意味が含まれているように思われます。即ち『いつでも何処でも、絶えずそうしなさい』という意味で」言われているのであると解説しました。

この文脈の中で言われている「親切」もまた『いつでも何処でも、絶えず』行うことが奨励されていると考えて良いと思う。その意味も含めての「小さい小さい親切も」という詩句なのである。

私は、本来「親切」に大小は無いと考える。というよりは、人間が自分の「あらゆる行為(それが善であれ悪であれ)」について、自分自身で大小を測ることは出来ないと考えているのです。ある場合には、私たちにとっての「小さい親切」は、その「親切を受ける側の人間」にとって、人生を変えるほどの大きな影響を持つかも知れない。また逆に、私たちにとっての「大きな親切」が、文字通り「大きなお世話」となる場合もあるのである。

上記の理論を「悪」あるいは「罪」について当てはめることは、興味深いことではあるけれども、今回の主題からは離れるので控えることとする。

この箇所でも中心的な言葉(主語)は「天と心に住む神」である。

この詩句を理解する為には、是非ともこの「天と心に住む神」を理解する必要があるのです。このことの具体的な内容については、前回までの解説の中でも詳しく触れています。

今回の箇所の「主語」が「天と心に住む神」であるとすると、「述語」は「一つ一つ喜び」「一つ一つむくい(る)」という、二つの「動詞」です。

上記より、この二つの動詞は「神の動詞」であるといえるでしょう。

ここに於いて私がどうしても語りたいことは、この詩句に於いて私たちが仰ぐ神は「動かざる神」ではなく「活動する神」であるということです。

今回の箇所で語られている「神の活動」は私たちの行う「親切」を「一つ一つ喜ぶ」ことと、その「親切」に「一つ一つ報いる」ことである。

この「神の活動」に思いを馳せ本日は閉じたいと思う。

今日も語りきっていない感たっぷりで次回に続く。

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『キリスト教信仰和讃』解説第5回

久し振りの『キリスト教信仰和賛』解説シリーズです。

箇所
その一の三、

三、人を大事にしているは、神を大事にするのです、
 人を粗末にしているは、神を粗末にするのです。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この箇所はわかりやすいようで解りにくい、理解出来るようで理解できない。そういう箇所ではないでしょうか。

この箇所を理解する為に大切なことは、この詩句のなかで「神」がどのような存在であり、また「神」と「人」との関係が、どのようなものであると考えられているかという事です。

上記の問いに関する答えは、前回取り上げた「その一の二」の詩句に求められます。すなわち「人は神の内に住み、神は人のうちに住む、魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。」というものです。

この考えからすれば、今回の詩句には、なんら矛盾も無く、当然の事を述べていることが解るでしょう。

しかし、この詩句の作者である吉田清太郎牧師が、何故この当然の事をここで、敢えて述べているのかといいますと、それはこの詩句が子供たちに、或いはこの詩句のすべての読者、すなわち私たちに、「倫理道徳」を教示するという目的を持っているからです。

そうしますと、この箇所に示されている、「倫理道徳」は「人を大事にすること」「人を粗末にせぬこと」である事は明白です。

そして吉田牧師は「人を大事にすること」「人を粗末にせぬこと」の理由として、なぜならそれはそのまま神様にしている事になるからだと語っているのです。

このような論理は、この詩句の大前提である「天と心にすむ神」を知り、「人と神とは一体だ」ということを理解している人々にしか通用しないものです。

しかしその逆でいいますと、以上のことさえ理解してしまえば、この詩句は良く理解出来るのです。

なぜなら、「天に」住むと同時に、自分自身の「心に」神様が住まわれている事を知った人は、自分の周囲の人の「心に」も神様が住まわれる事を、ごく当然のように認める事ができるでしょうから。

また自分自身と「神とは一体だ」と知る人は、目の前の他者もまた神様と一体であることを当然悟るでしょう。

そのような人は「自分」と「他者」を区別しなくなるのではないでしょうか。

これこそ究極の「倫理道徳」であると私は思います。吉田牧師もまたこの事を教示しているのではないかと思います。

この「究極の倫理道徳」が、ごく限られた範囲ではありますが、私たちの通常の生活の中に見られることがあります。

それを私たちは「愛」と名付けています。

「愛」は「自分」と「他者」との区別を打ち消します。或いは溶かしてしまいます。

しかし私たちの「通常の生活の中に見られる愛」は非常に「限定的」であり、「一時的」であり、また「利己的」でさえあります。

「限定的」であり、「一時的」であり、また「利己的」であるもを「倫理道徳」とは呼べません。

ですから「愛」が「究極の倫理道徳」となるためには「普遍化」されなければならないのです。

ここに「普遍的な愛」の必要が提示されました。

「神は愛である」これは聖書が宣言する、神様についての最も単純で、最も美しい証言の一つです。

この「愛」そのもの、愛の源泉である神様が「天に」住まわれると、この詩句は教えています。

「天」とは、私たち人間が何処にいても、いつでも仰ぐことができる、「唯一つ」のものではないでしょうか。つまり「普遍的なもの」であるということです。

つまり「天にすむ神」とは「普遍的な愛の源泉」であり、私たちは「天にすむ神」を知った時、初めて「普遍的な愛」をも知ることができるのではないでしょうか。

これは「科学的な事実」の話しではありません。私たちの「経験的な事実」の話しです。

詩句とはそもそも、「科学的な事実」を説明するものではなく、その言葉の持つ雰囲気や手触りといったものを通して、「普遍的な何か」を表現するものなのではないかと私は考えます。

以下は今日の反省

この詩句の作者である吉田牧師は、もっと解りやすい、はっきりとしたメッセージを持ってこの詩句を書いたのだと思います。

私の未熟のせいで、この詩句のすばらしさが損なわれてしまわないように、ひたすら祈るのみです。

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『キリスト教信仰和讃』第4回

『キリスト教信仰和讃』の解説第4回

箇所
その一の二、

二、人は神の内に住み、神は人のうちに住む、
 魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。

全文は『キリスト教信仰和讃』①を参照。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

その一の一、では神の「内在」についてお話ししましたが、今日の箇所ではこの「内在」をさらに掘り下げています。

「内在」という言葉を使うので、「神は人のうちに住む」という時、何となく神が「物理的に」人間の内側に宿るというような様子を想像する方が多いのではないでしょうか。

ここで、①で私が、『「心」即ち、我々人間の「内側(物理的にというよりは「心」という目に見えない、しかし確かに存在する器官)」に住んでおられる』という表現を用いたのを思い出して頂きたいと思います。

「心」とは目に見えない器官であって、それが物理的に何処に存在するのかという事は、科学的にも、未だはっきりしていません。「心」の位置について、ある人たちは「脳」にあると言い、ある人たちは古典的に「心臓(ハート)」にあると言いますが、私たちの「心」はそのような単純なものではなく、「霊」「魂」といったものと深く関わっています。そのことは、皆さんも自分自身で、自分の「心」が果たして何処にあるのかと、暫く黙想してみますと良く解ることと思います。

話しが「心」に脱線しましたが、神もまた目に見えず、形が無い存在であります。であるからこそ「偏在」すると共に「内在」するという事が可能となるのです。そしてこのように神の「内在」について語る時、この「内在」という言葉の意味は、単純に「内側に在る」という意味ではなく、今日の詩句が「人は神の内に住み、神は人のうちに住む、」と語っているように、神と人が全く「一体」であるという意味なのです。
※「人は神の内に住み」という場合、全宇宙を覆う「偏在」の神の内に護られて在る人というイメージもありますが、ここでは「内在」ということに集中したいと思います。

本日の詩句は、この神と人との「一体性」を、非常に理解しやすい比喩を用いて、見事に語っております。

即ち「魚と水との如くにて、」です。
この表現は、まさに言い得て妙であります。

魚は水の中に在って、水の外では生きていけません。
また水は、魚の外側を包んでいるだけでは無く、魚の内側にも満ちているのです。

このように魚と水が一体であるとき、この両者を引き離すことは自然には全く出来ないことです。

この詩句の作者である吉田清太郎牧師は、この「魚と水との如くに」「人と神とは一体だ。」と喝破しているのです。

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『キリスト教信仰和讃』解説1回から3回補足まで

『キリスト教信仰和讃』

数ヶ月前、吉祥寺の「さかえ書房」という古本屋で一冊の本に出会った。

タイトルは
『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』である。

素晴らしい本には違いないが、まだ読み始めの為、レビューは後日改めて書きたいと思います。

本書を読み始めてすぐに、一つの素晴らしい歌が紹介されていて、私の心を完全に捕らえてしまったので、まずその歌を紹介することにしました。

『キリスト教信仰和讃』

その一
一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

二、人は神の内に住み、神は人のうちに住む、
 魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。

三、人を大事にしているは、神を大事にするのです、
 人を粗末にしているは、神を粗末にするのです。

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

五、神のむくいが来る時は、おそい早いはあるけれど、
 おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。

じつはこれに「その二」が続きますが今回はここまで。

これは牧師であられる吉田清太郎師が、日曜学校でこどもたちにも歌わせていた歌だそうで、非常に深い真理を平易な言葉で、本当に解りやすく表現しています。しかも韻がしっかり踏まれていて、文章としても、詩句としても美しさを持っていると思います。

私は本当にこの歌に惚れ込んでしまったので、
しばらくシリーズで勝手に解説なんぞを始めてみようと思い立ったのです。

手始めにその一の一、

「天と心にすむ神の、」

冒頭のこの言葉をとっても非常に深い、或いは単純には理解し難い真理を語っています。
つまりは、神はまず、「天」即ち、我々人間の「外側なる空間(また「天」という語は我々の住む次元、空間よりも高次の空間を連想させると共に、私たちの外側にある空間のいたるところとの意味も持っている)」に住むと同時に、「心」即ち、我々人間の「内側(物理的にというよりは「心」という目に見えない、しかし確かに存在する器官)」に住んでおられるという事を語っています。

これらの事を学問的な言葉では、神の「偏在」と「内在」と言います。

吉田師の神、即ちキリスト教の神様は、確かに、この一見矛盾するような二つのあり方によって、存在し、また働いておられます。

『キリスト教信仰和讃』は、この神の「偏在」と「内在」を、大袈裟にではなく、あたかも当然の事のように語っています。

続く詩句の中で、この主題は展開され、また深く解説されていますが、今日はここまでにしたいと思います。

『キリスト教信仰和讃』の解説第2回

箇所
その一の 一、

一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。

「み声を心でよく聞いて、」

上記を文字通り理解しますと、前述の「偏在」されると同時に「内在」される神様の「み声」を、鼓膜を通してではなく、「心」によって よく聞くようにという薦めです。

キリスト教の文化の中では、祈りの中で、今も生きて働いておられる神様の「み声(神様の語りかけ)」を聞くということが言われています。また私自身も日々そのような体験をしているわけです。

説明なしにこのような事を聞きますと、大多数の方々は、私を「聖人」か「狂人」のどちらかと思うか、或いは「想像力の豊かな人」とか「思い込みの強い人」と思われるかもしれません。

この歌の作者である吉田清太郎牧師は「み声」を「良心の語りかけ」であると理解していました。(未熟な私なりに理解して。。)

してみると、この歌の論理は、人間の「良心」が「完全に正しい」という前提がなければ破綻してしまいます。

はたして人間に「完全な良心」なるものが、備わっているものなのでしょうか。それも、すべての人間に備わっていなければならないのです。

この問いに答える鍵は前述の「心にすむ神」というところにあります。

吉田牧師は「良心の本源」は神様であると語っています。
詳しくは別の機会を待ちますが、『ナルニア国物語』の著者として有名なCS・ルイスも、彼の代表的な宗教著作『キリスト教の精髄』の中で、同一の論理を展開していますし、聖書もその事を語ってます。(未熟な私なりに。。)

つまり「良心」は「心にすむ神」によって完全にされているというのが、吉田牧師の考えです。

また普通、人間の「良心」と神様との連絡は切れていて(この神様との断絶を、キリスト教では「罪」と呼ぶ)、神様と「良心」の間を結ぶのが宗教であると、吉田牧師は述べています。

「心で聞く」ことについてもう一考。

キリスト教の文化の中では、神様の「み声」は「かすかな」「か細い」声であるという形容がよく用いられるように思います。

これは日常の雑踏の中で、絶えず乱れている私たちの「心」には、神様の「み声」は聞こえ難いものであるという事だと思います。

ところで「心」に聞こえる「み声」が、私たちの想像や思い込みではなく、確かに存在するのだという事を、証明する事は出来るのでしょうか?

私の考えでは、それを「論理(即ち抽象的な言葉)」として証明することは、不可能だと思います。しかし「具体的な経験」として、確かに神様が私たちに語られるという事を、私たちは経験することが出来ます。

少し前にベストセラーになって、映画化もされた『博士が愛した数式』という小説があります。残念ながら私は、映画のみをTVで視ただけで、原作はまだ読めていません。

その映画『博士が愛した数式』の中に、次のようなシーンと台詞があります。

深津絵里演じる主人公(家政婦役)の息子ルートが病院に運ばれ、主人公は病院の待合室でうなだれています。そこに寺尾聰演じる博士が紙とペンを手に近づき話しかけるのです。
※台詞の詳細は記憶に任せるほかないのが残念です。
(原作をお持ちの方は教えて下さい。)

「この紙に直線を書いてみなさい」
主人公は言われたとおりに紙とペンを受け取り、一本の横線を描く。
博士はそれを見て、
「今あなたが描いたのは、ある点と点を繋ぐ線分でしかない」
その後博士の解説が続きますが、その内容は次のようなものだったと記憶しています。

数学の上での「真の直線」とは、無限に続く真っ直ぐな線であって、それは紙の上に描けるようなものではありません。「真の直線」は「人の心の中にしか存在しない」のです。それと同じように「本当に大切なことは心にしか見えない」、また「この世界は目に見えないものを土台としている」のです。

これは真理だなぁと関心しました。(原作のファンの方、間違っていたらごめんなさい。。)

「本当に大切なことは心にしか見えない」のなら「本当に大切な言葉は心にしか聞こえない」のだと思うのです。そしてこの世界は、確かに「目に見えないお方の、耳には聞こえない声を土台として」存在し、また保たれているというのが「私たち」の考えです。

第二回、長くなりました。
最後まで読んで下さった方に心から感謝します。

先が思いやられますが、どうぞお付き合い下さい。
また、心ある方は、私がこの解説を途中で放り出さないようにお祈り下さい。

心に「み声」が聞こえます。
そうです神様、これは単なる自己満足です。。

『キリスト教信仰和讃』の解説第3回

箇所
その一の 一、

一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

全文は『キリスト教信仰和讃』①を参照。

「働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。」

非常に単純なことを勧めている箇所なので、果たしてここに解説が必要だろうかと思う。

それでも敢て解説を加えたい。

ここで注目したいのは、「働く」事と「学ぶ」事という我々人間の基本的な活動が、神の「み声」を聞いた後に「すべき事」として勧められている点です。

逆を言えば、吉田牧師は、『神の「み声」を聞く前には、「働く」事も「聞く」事も控えるべきである』と言いたかったのではないかと私は思います。

ですから、ここで語られている「働き」と「学び」とは、前節の「天と心にすむ神の、み声」を前提にしている「働き」と「学び」であって、私たちが一般に用いる「職業的労働」としての「働き」や「抽象的学問」としての「学び」を意味してはいないのです。

それでは「天と心にすむ神の、み声」を前提にしている「働き」と「学び」とはどのようなものであるかといいますと、第一には偏在の神に取り囲まれている者として、また内在の神の促しにより、平安と喜び、そして確信に溢れて行う、この世的利害関係、損得勘定とは全く無縁の「真の人間活動」としての「働き」と「学び」であるという事ができるでしょう。

この「真の人間活動」こそ「善きこと」と呼ぶに相応しい、私たち人間の行為です。

吉田牧師はこの段落を「どこにても」という言葉で閉じています。

この「どこにても」には「空間的な」意味と共に「時間的」意味が含まれているように思われます。即ち『いつでも何処でも、絶えずそうしなさい』という意味ではないでしょうか。

そしてこの言葉は、直前の「働き」と「学び」という「善きこと」に対してだけでなく、当然「天と心にすむ神の、み声を心でよく聞く」ことにも掛かっているのです。

ここで『キリスト教信仰和讃』その一の 一、を私なりの言葉でまとめると次のようになります。

『偏在であると同時に内在される神様のみ声に、絶えず耳を傾けなさい。そして、そのお声を聞いたからには、ただその通りに行いなさい。それこそが本当に善きことなのです。』

『キリスト教信仰和讃』③~補足~

『キリスト教信仰和讃』
その一の 一、

一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

昨日はこの箇所を私なりにまとめてみたのですが、現在読書中である『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』のなかに、この詩句の解説として相応しい、吉田牧師自身の言葉を発見したので、ここに補足致します。

『神の栄光は、万有を通して輝くとともにわが心を通してまた輝いてくる。その際その光りに応じて起居動作をすると千変万化する。日常生活がことごとくよろしきにかなわざるはないものとなる』

これは吉田牧師が、同時代の高名な禅僧・峨山和尚に対してキリスト教を説明した際の言葉であり、これに付いても或いは解説が必要かとも思いますが、今回は資料として紹介するに留めます。

以上

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