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<title>影の国にわかれをつげて</title>
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<description>聖と俗との狭間を生きる「ひとりの人」のブログ。</description>
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<title>十字架の苦しみはキリスト者の家紋である</title>
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<description>　ある考え方によると、キリスト者の群れは「家族」として持つ多くの類似性によって他...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　ある考え方によると、キリスト者の群れは「家族」として持つ多くの類似性によって他と区別される。そして、19世紀のスコットランドにおいて指導的な牧師であり、賛美歌作者としても知られているホレイシャス・ボナーは、「十字架の苦しみ」こそキリスト者の「家紋」であるという特徴的な考えを持っていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ボナーの宣教活動は成功していたが、彼自身の個人の生活は、苦しみと無縁ではなかった。五人の子どもを短い期間に次々と喪い、そのことは彼の思想に深い影響を与えた。キリスト者の生活における苦しみの位置という問題は、彼の思想から離れず、それは刊行された彼の作品の中でたびたび述べられている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;em&gt;彼ら（キリスト者）はこのどれよりも独特な一つのしるしを持っている。それはまさに家紋である。すなわち、彼らは皆、十字架を負う者たちなのである。これは各人がそれによって認知される、確実なしるしである。彼らは皆、十字架を負う。それを恥であるかのように隠すこともしない。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この方によって、世界は私たちに対して十字架につけられ、私たちも世界に対して十字架につけられたのです。」十字架は時には軽く、時には重い。時には恥と苦しみを多く、時には少なくもたらすが、しかしいつも彼らの上にある。　&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;　悲しみの小道は人跡まれな道ではない。すべての聖徒が足を踏み入れた。彼らの足跡をそこにたどることができる。それは慰めとなるのだ。このことを記憶することは、慰め、いや、励ましとなる。もし私たちが土牢に捕らえられるなら、私たちの前に多くの殉教者がそこにいたと知ることは慰めにならないであろうか。古代の壁一面に彼ら自身の手によって書かれた名前を読むことは励ましとはならないだろうか。私たちがすべての苦しみから抜き出す慰めは絶大なものである。私たちが投げ込まれるかまどは、すでに多くの聖徒によってきよめられているのだから。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;　「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」（Ⅱテモテ2：12）。このことを私たちは確信している。ここで苦しみにおいて一つであることは、この後、栄光において一つであることの保証である。この二つは切り離せない。彼の恥は地上で私たちのものであり、彼の栄光は天で私たちのものとなるであろう。それゆえ、「キリストの苦しみに与れるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」（Ⅰペテロ4：13）。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;　私たちは孤独の夜をさすらう旅人にすぎない。遠方にある山の頂上に、ここでは決して昇ることのない太陽の反射をかすかに見るが、太陽はその後にある「新しい天」では決して沈まない。そして、それで十分である。それは暗いでこぼこ道で私たちを慰め、励ます。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　　　　　　　&lt;em&gt;アリスター・マクグラス著『信仰の旅路　たましいの故郷への道』より引用&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　地上においては「苦しみ」は常に私たちとともにある。もし私たちの現状がそのようなものでないとしたら、それは逆に私たちが「家紋」を失っていることを意味しているのだとボナーは述べている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　すべてのことには時があり、「苦しみ」の生活の中に「慰め」と「励まし」の時があり、さらにそこには「恵み」と「喜び」も添えられている。そしてそれは私たちに対する主の深い憐れみによる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかしこの世はキリスト者にとっては「終の棲家」とはならない。すなわち安息はこの世にはないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このことを忘れて、この世に全き安息を求めようとするとき、私たちは「家紋」を失っているのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「家族」であることの一つの重要な意味は、財産を共有していることである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それは、聖書の中の表現を用いれば「共同相続人」であることを意味している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そして「家紋」を失うということは、家族の証を失うことであり、財産の相続権を失うということでもある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　キリスト者の持つ「家族」としての財産とは、イエス・キリストに在る無限の富、すなわち「永遠のいのち」と「天の御国」における国籍である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　地上におけるつかの間の安逸のために、これを失うことは愚かである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　だから兄弟姉妹たちよ、この「家紋」を絶対に手放さないように守ろうではないか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　主が共にいて、これを守って下さる。そして、すべての苦しみから、必ず私たちを救い出して下さる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　聖書に証されている約束の中で、これほど確かな約束はないと私は確信している。&lt;/p&gt;

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<dc:subject>独白ではなく、対話として・・・</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2012-01-30T22:36:03+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-b518.html">
<title>「折伏」即「摂受」である</title>
<link>http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-b518.html</link>
<description>「神の痛みの神学」は痛みなき神を説く神学に対して「折伏」の役目を果たさねばならぬ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;em&gt;「神の痛みの神学」は痛みなき神を説く神学に対して「折伏」の役目を果たさねばならぬ。―中略―神の痛みの神学は二つの側面の真理を含むが故に、「折伏」もまた二つの側面に対してなされねばならぬ。第一には、神が徹底的に&lt;strong&gt;包み給う&lt;/strong&gt;神たることをば否定する立場に対して。第二には、包み給う神の愛から神の&lt;strong&gt;痛み&lt;/strong&gt;を押し出す立場に対して。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;北森嘉蔵　『神の痛みの神学』　講談社,1999.4&amp;nbsp; 第14刷発行 p.29.（強調は原著者）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;しかし、この「折伏」は神の&lt;strong&gt;痛み&lt;/strong&gt;の神学によってなされるが故に、それは同時にまた「摂受」でもなければならぬ。痛みにおける神は徹底的に包み給う神であった。もしこの神がなんらか他の立場に&lt;strong&gt;対立&lt;/strong&gt;し、これらを単に「折伏」するのみであるならば、それはすでに自己の本質から逸脱したことを意味するであろう。神の痛みは一応自己と対立する立場をも究極においては包み生かすのでなければならぬ。これすなわち「摂受」である。しかもその際単に包むのでなく、相手をしてその抽象性を自覚せしめ、これより脱却せしめて、具体的真理に化するごとくに包むのでなければならぬ。「折伏」即「摂受」である。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;前掲書 pp.33-34.（強調は原著者）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;※折伏（しゃくぶく）は、仏教用語であり破折屈伏（はしゃくくっぷく）の略であり、相手の間違った思想に迎合することなく、正しいものは正しいと言い切り、相手と対話を通じて仏法を伝えること。摂受（しょうじゅ）は、折伏（しゃくぶく）に対する反対語であり、正しくは摂引容受（しょういんようじゅ）といい、心を寛大にして相手やその間違いを即座に否定せず反発せず受け入れ、穏やかに説得することをいう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここに「折伏」即「摂受」であると表現されている議論、或いは対話の方法は、まさにヘーゲルの弁証法におけるアウフヘーベン（止揚）、すなわち「否定の否定」である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また北森は、同じ文脈においてキェルケゴールの次のような言葉の引用している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;「枝の鳥、野の百合花、森の鹿、海の魚、そして無数の楽しげなる人間が『神は愛なり！』と歌っている。しかしこれらのソプラノの下にあたかも潜められたバスのごとく、犠牲（いけにえ）とせられ給いし人の『深き淵より』De Profundisの声が響く、いわく、『神は愛なり！』」&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;前掲書 p.32.&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そして北森は、この「楽しげなる人間」のソプラノのみを歌い、「深き淵より」響く神の痛みのバスを聴く耳をもたない近代主義神学の論者たちに対して「友よ、この調べにはあらず！」と繰り返し述べている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここで注目すべきことは、この『神の痛みの神学』において北森は「折伏」されるべき近代主義神学の論者たちを「友」と呼んでいることである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;これこそが、真にキリスト教的な議論、対話のスタンスであると私は確信する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;箴言17：17&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また、恐らく理想的な弁証法は真にキリスト教的な人格においてはじめて成立するものであろうとも思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;北森の「友よ、この調べにはあらず！」という言葉には、以下のような含みがあると私は考える。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;友よ、この調べにはあらず！然るに我らの神は我らを友と呼び給う。故に汝は神の友であり我が友である。それ故我らは共に、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、我らの神の御心の深みまでを探り求めようではないか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;北森はこう述べている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;およそ神学の性格を決定するものは、その&lt;strong&gt;モティーフ&lt;/strong&gt;すなわち本音としての意図である。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;前掲書 p.30-31.（強調は原著者）&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そしてこの神学の「モティーフ」とは「神の痛み」であり、人間の「破れたる現実」を「徹底的に包み給う神」である。&lt;/p&gt;

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<dc:subject>『神の痛みの神学』を読む</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2012-01-10T13:58:04+09:00</dc:date>
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<title>花はどこへ行った</title>
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&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://youtu.be/c5i6B6FVmlo&quot;&gt;http://youtu.be/c5i6B6FVmlo&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;原曲は有名なフォークソングですが、清志郎さんの言葉でアレンジされた歌詞がストレートに心に響いてきます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『花はどこへ行った』&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;野に咲く花は どこへ行った&lt;br /&gt;遠い昔の物語&lt;br /&gt;野に咲く花は 少女の胸にそっと優しく抱かれていた&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;可愛い少女は どこへ行った&lt;br /&gt;遠い昔の物語&lt;br /&gt;可愛い少女は 大人になって恋もして ある若者に抱かれていた&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;その若者は どこへ行った 遠い昔の物語 &lt;br /&gt;その若者は兵隊にとられて戦場の炎に抱かれていた&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;その若者は どうなった&lt;br /&gt;その戦場で どうなった&lt;br /&gt;その若者は死んでしまった小さなお墓に埋められた&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;小さなお墓は どうなった 長い月日が流れた&lt;br /&gt;お墓のまわりに花が咲いてそっと優しく抱かれていた&lt;br /&gt;その咲く花は どこへ行った&lt;br /&gt;遠い昔の物語&lt;br /&gt;その咲く花は 少女の胸にそっと優しく抱かれていた&lt;br /&gt;野に咲く花は どこへ行った&lt;br /&gt;遠い昔の物語&lt;br /&gt;野に咲く花は 少女の胸にそっと優しく抱かれていた&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://www.blogmura.com/&quot;&gt;&lt;img width=&quot;88&quot; height=&quot;31&quot; alt=&quot;ブログランキング・にほんブログ村へ&quot; src=&quot;http://www.blogmura.com/img/www88_31_3.gif&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href=&quot;http://www.blogmura.com/&quot;&gt;にほんブログ村&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

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<dc:subject>忌野清志郎に聴こう！</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2011-09-08T12:03:28+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/jump.html">
<title>JUMP </title>
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<description>『JUMP』 この曲は私を「祈り」についての黙想に導く。 E.H.ピーターソンは...</description>
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&lt;p&gt;&lt;iframe width=&quot;420&quot; height=&quot;345&quot; src=&quot;http://www.youtube.com/embed/vzD4434Jb0g&quot; frameborder=&quot;0&quot;&gt; &lt;/iframe&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『JUMP』&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この曲は私を「祈り」についての黙想に導く。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;E.H.ピーターソンは著書『牧会者の神学』において、「祈りと遊び」が深く関連していることを論じる中で、詩篇92編を引用しながら次のように書いている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;祈ることと遊ぶことは、野生の雄牛のありさまに似ている。すなわち、「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ」るのである（11節）。それは野生の動物が自由を謳歌しているありさまである。跳躍する様子、空を飛ぶ様子、踊りはねるように進む様子など、動物たちがその自然の環境の中で生きている姿を目にするのは私たちにとって喜びである。中略、祈ること遊ぶことは、そうした様子に似ている。つまり、それは「飼いならされていない」のである。祈ること遊ぶことにおいて、私たちはさまざまな見せかけや覆面を放り捨てる。そこでは、私たちは強固な自意識からも解放される。そこでは私たちがあるがままの存在となるのである。中略、プラトンは、人間であれ動物であれ、あらゆる被造物の子どもたちが跳びはねることの中に、真の『遊びの本質』のモデルを発見した。ほんとうに『跳びはねる』ためには、人は地面を跳躍板のように利用する方法を知るとともに、弾力のある安全な着地のしかたを学ばなければならない。中略、それは引力に打ち勝とうとする試みであって、そこから逃げ出すことではない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここに言われている「飼いならされていない」という言葉は清志郎さんのイメージにぴったりだと思う。そして清志郎さんは「遊び」がとても上手な人だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;C.S.ルイスは『ナルニア国ものがたり』の中で、アスランを「飼いならされていない」ライオンとして描いている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私は「飼いならされていないもの（人）」が大好きである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「聖なるもの」は、すべからくそうであるからだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私もそのようで在りたいと願っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;清志郎さんの歌を聴いているとき、私は清志郎さんの聖（きよ）さに触れているように感じる。&lt;/p&gt;

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<dc:subject>忌野清志郎に聴こう！</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2011-09-07T12:36:31+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-18c9.html">
<title>サマータイム・ブルース</title>
<link>http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-18c9.html</link>
<description>2011年の夏は終わろうとしている。 しかし、3.11に始まった「原子力の夏」は...</description>
<content:encoded>&lt;iframe width=&quot;420&quot; height=&quot;345&quot; src=&quot;http://www.youtube.com/embed/dVn0Aet0Bs8&quot; frameborder=&quot;0&quot;&gt; &lt;/iframe&gt; &lt;p&gt;2011年の夏は終わろうとしている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、3.11に始まった「原子力の夏」はまだ終わらない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一見するとこういうやり方は品性がないように見える。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、沈黙するべきときに沈黙し、発言するべきときに発言するのは、一つの品性あるやり方であると思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;清志郎さんは、本当に品のあるやり方を知っていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;詩で、音楽で大切なことを伝えようとしたのだから。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私にその品性を真似することはできない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ただ、こういうやり方をしていた人がいることを証言することはできる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私たちはそろそろ反省するときかも知れない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「卑怯者」にならないために。&lt;/p&gt;

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<dc:subject>忌野清志郎に聴こう！</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2011-09-06T20:15:38+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/a-man-beyond-th.html">
<title>A Man Beyond The Sky 　by ジョー山中</title>
<link>http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/a-man-beyond-th.html</link>
<description>またひとり、私の大好きなアーティストが逝ってしまいました。 映画『人間の証明』の...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;iframe width=&quot;420&quot; height=&quot;345&quot; src=&quot;http://www.youtube.com/embed/NE8jkfIXczk&quot; frameborder=&quot;0&quot;&gt; &lt;/iframe&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;またひとり、私の大好きなアーティストが逝ってしまいました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;映画『人間の証明』の主題歌「PROOF OF THE MAN」や、同じく映画『戦国自衛隊』の挿入歌「ララバイ・オブ・ユー」などで知られるジョー山中さん。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「魂を揺さぶる」という表現は、ジョー山中さんの唄に、まさに相応しい形容であったと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;大好きなジョー山中さんの曲の中でも、私が一番好きなのがこの曲です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「A Man Beyond The Sky」　作詞・作曲：ミッキー吉野&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ 明朝&amp;quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://www.blogmura.com/&quot;&gt;&lt;img width=&quot;88&quot; height=&quot;31&quot; alt=&quot;ブログランキング・にほんブログ村へ&quot; src=&quot;http://www.blogmura.com/img/www88_31_3.gif&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href=&quot;http://www.blogmura.com/&quot;&gt;にほんブログ村&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

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<dc:subject>おススメレビュー</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2011-08-18T13:42:36+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-69d9.html">
<title>「関係性の中で生きる存在」としての「人間」と「宗教」について</title>
<link>http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-69d9.html</link>
<description>「人間」は「関係性の中で生きる存在」であるということがよく言われる。 そしてそれ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;「人間」は「関係性の中で生きる存在」であるということがよく言われる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そしてそれは、恐らく事実であろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それゆえ私たちは、常に他者を意識して生きざるを得ない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この「他者に対する意識」は、私たちを「道徳的な存在」にもするであろうし、また場合によっては「非道徳的な存在」にもするのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このように考えるとき、そもそも「道徳」とは、他者との「関係性」に於いてのみ意味を持ち得る概念であるというような気がしてくる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;現在の私としては、それもまた事実であろうと思われる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;否、むしろ私には、あらゆる「関係性」から切り離された「人間」という存在を全く想像することができないが故に、「人間」に関するあらゆる概念は「関係性」を排除しては成り立たないと結論する以外に無いのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一見、「一個の人間」のみに帰結するであろうと思われる「生命」や「健康」、「死」という概念にしてみたところで、突き詰めれば「一個の人間」においては完結しないのではないか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「生命」ほど、「他者との有機的な繋がり」を連想させ、また事実「関係」している概念は稀ではなかろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「健康」もまた、比較する対象、即ち「完全に健全である人間」の像が、概念としてでも存在しない場合には成り立たない概念ではなかろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もし、概念としてでも「他者」を想定しているとするなら、それは「関係概念」であると言うことができるであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もしだれかが、人間は他者との比較無しに「健康である」とか「健康でない」とかいう場合、その基準はどこからくるのであろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;言い換えれば、人間はそれを「誰から教えられる」のであろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;飛躍して「痛み」や「不自由さ」が「健康でない」という基準になり得るであろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また「病（やまい）」とは、一体なんであるのか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;人が「病」を持ちつつ「健全（健康）」であるということは在り得ないのであろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また一跳びに飛躍して「病」について考えるとき、「病」もまた「関係概念」であると考えることはできないであろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「病」とは、とりもなおさず私たちから「奪うもの（者）」である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;即ち、「奪う」ということが「関係概念」である以上、「病」もまた「関係概念」である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;では「死」はどうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「死」が単なる「生命」の消滅であると考える場合に於いてさえ、「生命」が「他者との有機的な繋がり」の上に成り立ってる以上、「死」は「関係性」の中で起こる現象であると考えることができるであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また、私たちは「死」という言葉を、慣用的には「関係性」の中に当て嵌めて用いる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「孤独死」或いは「犬死（いぬじ）に」などがそれに当り、「孤独死」については特別な説明は必要ないであろうが、「犬死に」とは一般に、「意味のない死」のことであり、この「意味のない」とは、即ち、遺された生きている人間にとって「意味のない」という意味であるから、この場合、「他者にとって意味のない」という意味で「関係概念」である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このように人間は、その存在の「初め」から「終わり」まで、文字通り、始終「関係性」の中に在ることを、私たちの経験は証明しているのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「人間」は「関係性の中で生きる存在」である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここで私は、この事実はすべての人間に共通する2つの側面を意味していると考える。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第一に、すべての人間は「社会的な存在」であるという側面。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第二に、すべての人間は「宗教的な存在」であるという側面。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第一の側面については、私はここで、敢えて言葉を重ねようとは思わない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第二の側面については、恐らく説明が必要であろうから少し述べようと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私が、「関係性の中で生きる存在」であるすべての「人間」が「宗教的な存在」であるという理由は、私が「宗教」とは一体なんであるのかと考えているのかということに懸かっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「宗教」とは元来、神や仏など「超越的な存在」に関わるもの、或いは、人間の霊魂、即ち「現世的経験の外側」に関わるものである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;どれほど「現世的経験」に重きを置く宗教であったとしても、必ず、上に挙げた「超越的な存在」あるいは「現世的経験の外側」に関する「教条」或いは「命題」を持っているであろうし、もしそのようなものを一切持っていないとすれば、それはもはや「宗教」とは呼べず、それは人間のもう一つの側面に属する「社会的な思想」或いは「運動」である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ともかく、「宗教」が「超越的な存在」或いは「現世的経験の外側」に関するものであり、且つ「人間」は「関係性の中で生きる存在」であると言うとき、すべての人間は「宗教的な存在」であるという私の指摘は、恐らく正しい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;なんとなれば、「関係性」とは、とりもなおさず「人間」の「外側」に存在するものとの間に初めて存在する概念であるが故に、「人間」は「外側」を必要としているからである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ところで、「ひとりの人間」は「もうひとりの人間」を、完全に「外側の存在」として経験することが、果たしてできるであろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;というのは、私たちは「自分以外の人間」を自分自身の「経験を通して知る」のであり、また、それが可能であるのは「他者」である「もうひとりの人間」が、私たちと同じ「人間性（という経験）」を持っているという事実に根ざしているからである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;つまり「ひとりの人間」が「もうひとりの人間」を「知る（出会う）」とき、「ひとりの人間」は「もうひとりの人間」を自分の「経験の中で知る（出会う）」のであって、言い換えれば、「もうひとりの人間」を、自分の「経験の中に取り込んでいる」のである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そして「ふたり（或いはそれ以上の複数）」の人間が「関係性」を持つというとき、「人間」は、「お互い」を自分の「経験の中に取り込んでいる」のである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そのような「経験」の只中に於いては、「ふたり（或いはそれ以上の複数）の人間」が「お互いの内側に存在する」のであるから、そこに「外側の存在」としての真の意味での「他者」は存在しないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここに、私が「すべての人間は宗教的な存在である」と言う理由がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;つまり「人間」は、根源的に「外側の存在」としての「他者」を必要としているにも関わらず、同じ「人間」の中に、それを見出すことができないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そこで「すべての人間」は、たとえそえれが「抽象的な概念」であったとしても「超越的な存在」或いは「現世的経験の外側」の経験を必要としているのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここで「すべての宗教」は「救済論」となると、私は考える。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「救済」とは即ち「人間」の「根源的な必要が満たされること」である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もしそうであれば、「真の宗教」は「抽象的な概念」では在り得ない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;なんとなれば「抽象的な概念」には、「現実の必要」を満たすことができないからである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;即ち、「真の宗教」は「具体的な事実」としての「超越的な存在」或いは「現世的経験の外側」の経験を持っていなければならないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここで、キリスト者である私は、多くの「この道」の先達が、聖書の証する「神」こそが「唯一の実在（或いは現実）」であると告白していることに注目する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「神」こそが「実在（現実）」であり、その方に比べれば、「人間」の「実在性（現実性）」は影のように頼りなく不確かなものである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それにも関わらず「人間」は「存在（実在）」しようと欲するが故に、「唯一の（絶対的な）実在」である「神」との「関係性」を必要としているのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;20世紀最大のキリスト教神学者の一人であるカール・バルトは初期に於いて、「人間」が如何にしても到達し得ない「全く異なる存在」としての「神」を「絶対的他者」という言葉で表現したが、後期には、「神の人間性」について言及している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;バルトにとっての「神の人間性」とは即ち「神の人間への関係と顧み」であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私もまた、キリスト教の「神」は「絶対的他者」であると共に「人間に関係する者」であると確信している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そしてこのことは重要である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;なぜならば、「神」がもし「絶対的他者」でなければ、その「神」には「人間」の根源的な必要を満たすことはできず、即ち「救済者」で在り得ないのであり、またもし「神」が「人間に関係する者」即ち「人間」を憐れみ「積極的に人間と関係性を築こうとする神」でなければ、「人間」は「絶対的他者」である「神」を永遠に知ることができないからである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;またこの「救済論」が実現するためにはもう一つ大切な条件が存在する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それは「神」が「人間」の「上位の存在」であり、「人間的な経験にとって不可能なこと」を実現する力を持っていなければならないということである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このことについては、聖書は「創造主」としての「神」を指し示すことによって保証を与えている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;即ち「創造主」である「神」は「被造物（世界）」に対して「完全に自由な介入」を行うことができるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この「完全に自由な介入」を、聖書は「奇跡」と呼んでいるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私としては、「奇跡」について、聖書の「神」は「完全に自由」ではあるが「秩序を重んじる」神でもあることをも強調する必要があると考えているが、「奇跡」については、ここでの主題を離れるので、これ以上は言葉を控えたいと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここで私が述べたかったことは、「人間」が「神」を知り、「神」との「関係性」を持つことができるというのは、「創造主である神」の「主権」に根ざした「奇跡」であるということである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここで私としての結論を述べたいと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「すべての人間」は根源的に「関係性」を必要としている存在である。即ち「すべての人間」は「救済」を必要としている存在である。そして、「救済」とは、とりもなおさず「絶対的他者」としての「神」との「関係性」であり、それは聖書に証された「憐れみ深い創造主としての神」の「主権」によらなければ、永遠に不可能なものである。&lt;/p&gt;

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<dc:subject>独白ではなく、対話として・・・</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2011-07-28T22:44:35+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/kiss-from-a-ros.html">
<title>Kiss From A Rose - Seal　薔薇の接吻（くちづけ）-シール</title>
<link>http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/kiss-from-a-ros.html</link>
<description>Kiss From A Rose 　薔薇の接吻（くちづけ） There used...</description>
<content:encoded>&lt;iframe width=&quot;425&quot; height=&quot;349&quot; src=&quot;http://www.youtube.com/embed/w7y19ED6Vrk&quot; frameborder=&quot;0&quot;&gt; &lt;/iframe&gt; &lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt&quot;&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt&quot;&gt;Kiss From A Rose 　薔薇の接吻（くちづけ）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;There used to be a greying tower alone on the sea.&lt;br /&gt;You became the light on the dark side of me.&lt;br /&gt;Love remained a drug that&#39;s the high and not the pill.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;かつて海のそばに古ぼけて灰色の塔があった。&lt;br /&gt;君はぼくの心の闇を照らす光となった。&lt;br /&gt;愛はハイなドラッグではあったが、錠剤ではなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;But did you know,&lt;br /&gt;That when it snows,&lt;br /&gt;My eyes become large and,&lt;br /&gt;The light that you shine can be seen.&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だけど知っていたかい&lt;br /&gt;雪が降るとき、&lt;br /&gt;ぼくの眼は大きくなり、&lt;br /&gt;君が放つ光が見えるようになることを。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;Baby,&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;I compare you to a kiss from a rose on the grey.&lt;br /&gt;...kiss from a rose on the grey.&lt;br /&gt;Ooh,&lt;br /&gt;The more I get of you,&lt;br /&gt;Ooh...................&lt;br /&gt;Stranger it feels, yeah.&lt;br /&gt;And now that your rose is in bloom.&lt;br /&gt;A light hits the gloom on the grey. &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ベイビー、&lt;br /&gt;ぼくは君を薔薇の接吻（くちづけ）にたとえよう。&lt;br /&gt;この灰色の世界で。&lt;br /&gt;この灰色の世界での薔薇の接吻（くちづけ）に。&lt;br /&gt;ああ、&lt;br /&gt;君のことを深く知るほどに、&lt;br /&gt;ああ、&lt;br /&gt;その口づけは未知のものに感じられる。&lt;br /&gt;そして今、君の薔薇は開き、&lt;br /&gt;光が、灰色の暗がりを叩く。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;There is so much a man can tell you,&lt;br /&gt;..there....................woa...&lt;br /&gt;So much he can say.&lt;br /&gt;there&#39;s so much inside.&lt;br /&gt;You remain,&lt;br /&gt;you.......&lt;br /&gt;My power, my pleasure, my pain, baby&lt;br /&gt;To me you&#39;re like a growing addiction that I can&#39;t deny.. yeah.&lt;br /&gt;Won&#39;t you tell me is that healthy, baby?&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;男は君に伝えたいことが多くあり、&lt;br /&gt;彼が言いたいことが多くあり、&lt;br /&gt;心の中に多くあり、&lt;br /&gt;君はそのままでいる&lt;br /&gt;君は・・・&lt;br /&gt;ぼくの力、ぼくの歓び、ぼくの痛みを、ベイビー。&lt;br /&gt;ぼくにとっての君は、&lt;br /&gt;まるで逃れることのできないアディクションであり、&lt;br /&gt;ぼくはそれを拒めない。&lt;br /&gt;教えてくれないか、これは当然のことなのか、ベイビー？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;I’ve been kissed by a rose on the grey&lt;br /&gt;I’ve been kissed by a rose (on the grey)&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ぼくは薔薇の接吻（くちづけ）を知っている。&lt;br /&gt;この灰色の世界で。&lt;br /&gt;ぼくは薔薇の接吻（くちづけ）を知っている。&lt;br /&gt;この灰色の世界で。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ 明朝&amp;quot;; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century&quot;&gt;&lt;a href=&quot;http://www.blogmura.com/&quot;&gt;&lt;img width=&quot;88&quot; height=&quot;31&quot; alt=&quot;ブログランキング・にほんブログ村へ&quot; src=&quot;http://www.blogmura.com/img/www88_31_3.gif&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href=&quot;http://www.blogmura.com/&quot;&gt;にほんブログ村&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

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<dc:subject>おススメレビュー</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2011-06-17T21:45:27+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-9d40.html">
<title>村上春樹のエルサレム賞受賞式のスピーチについて</title>
<link>http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-9d40.html</link>
<description>2009年2月に作家、村上春樹がエルサレム賞を受賞し、その受賞式でのスピーチの内...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;2009年2月に作家、村上春樹がエルサレム賞を受賞し、その受賞式でのスピーチの内容が当時かなり話題となった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そのスピーチの内容を最近読み直してみたところ、それは（肯定的な意味において）あたかも宗教家の言葉のようであり、キリスト者である私にとっても、深い感銘を受ける言葉に溢れていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私個人にとっての覚書としての意味でも、このスピーチの内容から私が考え、感じたことをここにまとめてみようと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;参考にしたのは下記URLの和訳された文章である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://anond.hatelabo.jp/20090218005155&quot;&gt;http://anond.hatelabo.jp/20090218005155&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;スピーチの冒頭で、村上は、小説家を「プロの嘘つき(spinner of lies)」であると述べ、続けて、小説家の嘘、即ち「創作」が、不道徳であると咎められるのでなく、むしろ「巧みな嘘」は「評論家たちに賞賛される」理由について、次のような言葉で説明している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。&lt;strong&gt;ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。&lt;/strong&gt;ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。」（強調は筆者）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;引用文で強調した「&lt;strong&gt;ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。&lt;/strong&gt;」という言葉は、真理を語っていると思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また引用した文章全体は、聖書の中で、イエス・キリストが真理について、多くの場合「たとえばなし」を用いて話した理由の説明であるかのように私には思われる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;すなわち、ここからキリスト教会で、牧師や司祭が語る「説教」における例話についても、深く学ぶべき洞察があるように考えられるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また村上はスピーチの中で次のようにも述べている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「&lt;strong&gt;正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この言葉について、私は次のように言い換えたいと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「&lt;strong&gt;正しい事、誤っている事の判断はもちろん、『人間』の一番大切な任務のひとつです。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そして村上は、次のような前置きをして、話題となった「常に卵の側に」という言葉を語っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、&lt;strong&gt;それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「&lt;strong&gt;高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ&lt;/strong&gt;」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「&lt;strong&gt;それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。&lt;/strong&gt;」村上が、どの程度「聖書」に親しんでるのであるか定かではないが、私にしてみれば、これは非常に聖書的な表現である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。申命記6章6節&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。　申命記11章18節&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また、「&lt;strong&gt;そんな時に私は常に卵の側に立つ&lt;/strong&gt;」というのは、聖書全体を通して示されたイエス・キリストの姿と、驚くほど一致している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」&lt;br /&gt;イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;　　　　　　　　　　　　　　マルコの福音書2章16節17節&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;上記の言葉に続けて村上が述べている「&lt;strong&gt;いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう？&lt;/strong&gt;」という言葉は、もはや一作家としての言葉ではなく、説教者（或いは聖書における預言者）の言葉であると私には感ぜられる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;なぜならば、この言葉は、「世の常なる流れ」＝「壁」に逆らって立つ者の言葉であるからだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私がここで、「世の常なる流れ」という言葉で表現しているものを、村上はスピーチの中で「壁」また「システム（The System）」という言葉で表現している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また村上は、次のように続けている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「私が小説を書く理由はひとつだけです。&lt;strong&gt;個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事&lt;/strong&gt;です。物語の目的とは、&lt;strong&gt;私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐ&lt;/strong&gt;ために、&lt;strong&gt;警報を鳴らしながら&lt;/strong&gt;システムに向けられた光を保ち続ける事です。&lt;strong&gt;私は完全に信じています。&lt;/strong&gt;つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、&lt;strong&gt;徹頭徹尾真剣に、&lt;/strong&gt;創作をでっちあげ続けるのです。」（強調は筆者）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この文章の中の「小説」「物語」を「説教」或いは「聖書からのメッセージ」に、「小説家」を「説教者」、「書く事」を「語る事」に読み替えれば、それはそのまま私がキリスト教の説教者たちについて希望する内容をそのままに表現しているように思われる。ただ一点だけ、決定的に異なるの点は、説教者は「創作をでっちあげ続ける」のではなく、「聖書から聴き続ける」者であるということである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここに、説教者が小説家に勝る点があると、私は敢えて宣言したい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;なぜならば、「聖書から聴き続ける」者は、自ら「創作をでっちあげ続ける」と言い張る者よりも謙遜であるからである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そして、「&lt;strong&gt;そんな時に私は常に卵の側に立つ&lt;/strong&gt;」という村上の言葉は、真の謙遜を表現している言葉であると私が考えるからである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このような「真の謙遜」は、キリスト教の文化においては「謙卑（けんぴ）」という言葉で、主にキリストについてのみ用いられる。キリスト者にとっての「謙遜」とは、このキリストの「謙卑」に倣うことを意味するのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。&lt;br /&gt;自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。&lt;br /&gt;あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。&lt;br /&gt;キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、&lt;br /&gt;ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、&lt;br /&gt;自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp; 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ピリピ人への手紙2章3節から8節&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

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&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>独白ではなく、対話として・・・</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2011-06-08T18:28:52+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-2247.html">
<title>映画『セントアンナの奇跡』　監督スパイク・リー</title>
<link>http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-2247.html</link>
<description>『セントアンナの奇跡』（原題：Miracle at St. Anna）は、『マル...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;span class=&quot;fs10&quot; style=&quot;WIDTH: 150px&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/dvd/detail/D113099471.html&quot;&gt;&lt;img width=&quot;150&quot; title=&quot;セントアンナの奇跡&quot; alt=&quot;セントアンナの奇跡&quot; src=&quot;http://nttxstore.jp/o_images/D/D1/D113099471.jpg&quot; complete=&quot;true&quot; rel=&quot;v:image&quot; complete=&quot;true&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『セントアンナの奇跡』（原題：Miracle at St. Anna）は、『マルコムX』など人種差別を題材とした作風で知られる社会派の映画監督スパイク・リーによる2008年のアメリカ映画であり、ジェームズ・マクブライドによる史実を元にした同名の小説を映画化した戦争ドラマである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この映画は、2011年現在スパイク・リーの最新作であり、各メディアによって最高傑作とも評価されている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;物語は、物語上の「現在」である1983年のアメリカ、NYの（黒人）郵便局員ヘクターが切符を買いに来た（白人）客をドイツ製の拳銃で射殺した所から始まる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;その後、物語の主な舞台はヘクターが経験した第二次世界大戦下のイタリア、トスカーナ地方での回想に移る。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;最初に書いている通り、この物語はフィクションであるが、背景に幾つかの史実を含んでいる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第一の史実とは、1944年8月12日、イタリア、トスカーナのサンタンナ・ディ・スタッツェーマ市で起きた、反パルチザンの掃討作戦を行っていたナチス・ドイツ軍による大量虐殺である。その犠牲となった者の多くは、女性や老人、子どもであった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第二に、第二次大戦下のイタリア戦線でドイツ軍と戦った実在の第92歩兵師団、通称“バッファロー・ソルジャー”である。１万５千人のアフリカ系アメリカ人兵士で構成された部隊であり、「バッファロー・ソルジャー」の名は、もともと南北戦争時代、アメリカ合衆国陸軍第10騎馬連隊の会員に適用されたニックネームで、その後アメリカの黒人部隊は伝統的にこの名前で呼ばれている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そして第三の史実はフィレンツェのサンタ・トリニータ橋の消えた彫像の頭部である。サンタ・トリニータ橋には1608年にメディチ家の結婚を祝って四季の彫像が作られた。しかし、1944年8月8日、ドイツ軍によって橋は爆破され、四季の彫像の一つ、プリマヴェーラ（春）の頭部が行方不明となった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;劇中では、これらの史実を背景に、複雑な人間ドラマが展開する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;登場人物たちの置かれている立場は、アメリカの兵士、イタリア人パルチザンのメンバー、戦争に翻弄されるイタリアの一般市民、失望した元ファシスト党員、ナチス・ドイツの兵士などであり、劇中その運命が複雑に絡み合うのであるが、それらの人々の殆んどが同じキリスト教信仰を持ち、全く違うそれぞれの立場でありながらも、同じ神に祈り、救いを求めていることが意図的に強調されて描かれている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;全くの主観であるが、この映画の一つのテーマは、人間一人ひとりの価値観の違いと現実の複雑性であると感じた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;つまり、同じアメリカの黒人兵士であるから、或いはパルチザンのメンバー、ナチス・ドイツの兵士であるからといって、類似した価値観を持っているということは現実にはないのであって、むしろ、同じ背景、同じ環境に置かれたとしても、人間というのは一人ひとり、全く違った価値観や考え方を持つということである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;すべての物語がこのような現実的な人間描写をするものであったら良いと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;以上は私の主観的感想であったが、もう一つ、誰が観ても確かなこの映画のテーマは、タイトルにもある“奇跡”である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私の信仰によれば、「奇跡は神が起す」ものであり、それは事実であると思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この作品中では、奇跡にはもう一つ、「人間の信仰が引き寄せるものである」という側面が語られている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ここで、私にとって、作品中最も印象深かった台詞を紹介したい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この台詞を口にしたのは、物語のキーパーソンの一人であるトレインという大柄の黒人兵士であり、彼は純朴な性格であり、非常に単純なキリスト教信仰と正義感を持っている人物である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「財産なんかいらない　偉くなくてもいい　信じさえすればいい」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;彼はプリマヴェーラ（春）の彫像の頭部を大切そうに抱きながら次のように続ける。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「神様は人間の手でこれを作った　でも形と目的を与えたのは神様だ　そして、これを通して　別のものもくださる」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「何だと思う？」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「“奇跡”だよ」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この映画の多くの場面は、戦争の悲惨さと残酷さを描いている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、そのような闇の光景の中に、トレインの純粋さは穏やかな光となって、見るものの心に緩やかに差し込んでくる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この作品の中で起こった奇跡は、物語のクライマックスに起こった「一つの奇跡」だけではなかったと私は考えている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私にとってこの映画は、「“奇跡”とは一体何であるのか？」ということを考えさせられた、生涯忘れることのできない作品の一つとなった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そこで私は、改めてこの作品はスパイク・リー監督の最高傑作であると宣言したい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この作品で、彼は間違いなく“巨匠”と呼ばれる存在になったと。&lt;/p&gt;

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<dc:subject>おススメレビュー</dc:subject>

<dc:creator>トイフェルスドレック</dc:creator>
<dc:date>2011-06-06T00:24:37+09:00</dc:date>
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